外国語を学ぶことと、生きづらさと、表現

つい先日、道端で頭を抱えて座り込んでいる人を見た。気になってしばらく悩んだ後、声をかけてみた。その人は「大丈夫なんで、すみません」とすぐに去っていってしまったけれど、つらそうな顔をしていた。お節介だったかもしれない。申し訳なさを感じながら周りを見渡すと、そこにはたくさんの人たちがまるで何も気にしていないかのように歩いていた。

数日後、今度はわたしが、声をかけたあの人のようにすっかり参ってしまった。話題になっている「表現の不自由展」について、わたしは様々な人の反応が知りたかったので、意見を述べている人をTwitterで見かけるとリプライも含めてたくさん読んだ。その中で、ある言葉に完全に胸をえぐられて、心がやられてしまった。

ものを知らない奴は語るな。

自分の意見を発信した人に対して、誰かが送信していたリプライだ。ツイートした方も、リプライした方も存じ上げなかったけれど、わたしは強くショックを受けた。自分に言われているかのように感じてしまったし、わたしの中で色々な思いがぐるぐる駆け巡った。

月曜日は精神科へ通院する日だ。家を出る少し前から息苦しさを感じて、おさまらなかったので頓服を飲んだ。暑さと息苦しさで、病院へのいつもの道のりが遠く感じた。診察を終えて、カウンセリングの部屋に入っても息苦しさは変わらなかった。

席に座ってまず、「今すごく息がしづらくて、あまり話せないかもしれません」とカウンセラーさんに伝えた。息苦しさは少し前から起こるようになってはいたけれど、いつも寝る前に出ていた。だから、「こんな日中に症状が出るのは初めてで、なぜかもわからないんです」とも話した。

息苦しさについて話しながら二人で考えたり、いつも通りあれこれと思い浮かぶまま話している中で、「表現の不自由展」についてわたしが思ったことを話した。考えさせられることは多々あったけれど、とにかくわたしの胸を抉った「ものを知らない奴は語るな」という言葉についてあまりにつらかったことを伝えた。

わたしは歴史にも政治にも詳しくない。その観点で今回の展示について語ることは難しいし、歴史も政治も知っていた方がいいことなのは間違いないだろう。何にせよ、知っているものがあることはいいことだと思う。

でも、知らないことがあることは、そんなに駄目だろうか。「知らないけれどこう思った」って語る人がいたっていいとわたしは思う。知らないなら語るなというなら、教えて欲しい。Twitterが全てではないけれど、意見を述べると相手の人格まで否定する人をたくさん見かけて、正直なところかなり絶望した。

「この言葉で受けた感じは、なんだか3.11のときと似ています」と、ふと思い浮かんだことを言った。

3.11、東日本大震災のとき、わたしの住んでいた場所は大きな被害を受けなかった。それでも人生で一番大きな揺れを感じ、いつ余震が来るか不安に感じながら過ごした。TVで地震のニュースを見ながら家族でこたつを囲んでいたと思う。母が念のためにと大量に作ったおにぎりを、何故かわたしは何個も食べた。自分のお腹が空いているのかもわからなかったのに、食べないではいられなかった。これが生存本能というやつなのだな、と初めて実感したと思う。そんな話をすると、先生は思ったことをすぐに話し始めた。

「あの地震は、もう生命の危機を感じるような体験だったわけですよね。だからおにぎりをたくさん食べた。それと同じくらいのショックを展示に関する例の言葉から受けて、息苦しさという症状になっているんじゃないですか」

なるほど、と思った。そしてこの息苦しさは、思えば昔から感じていたのだ。

わたしは昔から、いわゆる同調圧力というやつに苦しんだ。学生のときに、女子たち何人かでトイレに行く意味がわからなかった。誘われたときは応えてついて行っていたけれど、自分が誰かを誘ったことはない。人と違うことをしていると、何かと尋ねられる。それが制服のスカートの丈が違うくらいのことでも。わたしは自分の脚が太いと思いコンプレックスに感じていたのでスカートを短くしなかったのだけど、それを話すと「真面目だね」と言われた。わたしたちと違うね、とスカートを短くした友だちみんなに言われたように感じた。それからは疑問に思いながらも、つらい思いをするよりはマシだと、とにかく人に合わせるように徹した。苦しかった。ずっと苦しかった。

小さい頃からも「いい子」に振る舞って生きてしまったので、子ども時代に子どもではなかったと思う。

話はわたしの趣味の英語学習に移った。ずっとやりとりをしているランゲージエクスチェンジ(お互いの母語を教え合うシステム)のパートナーのひとりで、とても日本語が上手な人がいる。でも、日本語が母語のわたしからすると、違和感のある表現も多い。だけど、それが興味深かったり、微笑ましかったりするのだ。

その人はよく「良かったですね!」と言う。わたしにいいことがあった時に言ってくれるけれど、それだけでなく自分のいい出来事について話した後にも「良かったですね!」と言うのだ。

たとえば、「前に日本に来た時はほとんどやりとりができなかったけど、今回はよくできたんです。良かったですね!」みたいな感じだ。日本語ネイティブとしては、そういう使い方はしないし、よりナチュラルな日本語にするなら間違っているのだと思う。だけど、なんだか可愛らしいと思うし、日本人も自分の出来事に関して「良かったですね!」って言うのもいいんじゃないか、なんて思った。

それに、わたしだって一生懸命に英語を話すけれど、絶対にたくさん間違っていると思う。それでも話すなり書くなりしないと伝わるかどうかも分からないし、間違っていたり、より適切な表現があっても教えてもらえない。自分でも気づけない。

30代で英語に改めて取り組み始めて、成長はすごくゆっくりだと思う。もともと英語は好きだったとはいえ、英語に関する明確な目標がどうしても見つからなかった。それでも自分なりに勉強を続けてきて、最近やっと、健康のために海外の気候が安定した地域に住みたい、と思うようになってきた。けれど、目標がなくてもいいとも思っていた。

ところが、先生はわたしの英語を学ぶ理由に関して、自分の想定外の考えを伝えてくれた。

「あなたにとって、英語を学ぶということはとても大きな意味を持つんでしょうね。自分の母語と全く違う言語を学ぶというのは、赤ちゃんが言葉を覚えていくようなことだと思うので、英語を学ぶことで、子どもとして過ごせなかった部分が補われるというか」

なんとなくストン、と腑に落ちた気がした。

長い間、苦しんでいた生きづらさは、すごくつらいけれど日本の持つ空気感からもかなり影響を受けているのかもしれない、と思った。もちろん、他の国もそれぞれ良いところ悪いところがあるだろうし、わたしは日本以外で暮らしたことがない。だから、まずは行きやすそうなところから様々な国に行って、色んな視点から自分の生まれ育った日本について考えたい。もし肌が合いそうなところがあれば、移住したい。

今回、表現についてたくさんの人が考えたと思う。わたしも表現をする一人としてあれこれ考えた。慰安婦像や陛下に関する作品などの展示について、展示方法について、脅迫への対応について、もっと適切な方法があったのかもしれないと思う。でもどうしたって不快になる人はいるのだろうし、捉え方は人によって違って当然だと思う。違うからこそ、みんなで考えるきっかけにできたらよかった。

今回のことで、そもそも「表現=美しいもの、ハッピーなもの」と考え期待している人が多かったのではないかとも思う。もちろんそれは表現の捉え方のひとつだろう。でも、自分が不快だと思う表現も、きっとたくさんある。そういうものに触れたとき、なぜ自分がこう感じるのか考えることもまた、表現に触れる意味を生むと思う。

そして、ハッピーな表現の根底が、全てハッピーだとは限らないのではないだろうか。少なくともわたしはそうだ。わたしのイラストは「優しいですね」とか「ホッとしますね」と言っていただくことが多い。いつもすごく嬉しく思っている。だけど、わたしはずっとハッピーじゃなかった。だから、イラストの世界だけでもハッピーにしたかったし、見てくれた誰かの気分が少しでもハッピーになればと思っている。

わたしは日本が好きだ。だからわたしだけでなくできるだけ多くの人が幸せに暮らせる国になって欲しい。そのためにわたしに何ができるか分からないけれど、表現を続け、英語を学び色んな国から日本のことを考えたい。

「知らないので、教えてくれませんか」
ってもっとみんな言えたらいい。だって全部を知ってる人も、間違わない人も、いないでしょう?

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Minako Masubuchi

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