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「かっこいいおばあちゃん」になりたくて

生きねば、と思うようになった。それをもっと、肩の力を抜いた表現で「かっこいいおばあちゃんになろう」と表現するようになったのがつい最近の話。
長生きしよう、だとまだ30代のわたしにはピンとこないのだ。

そう思うまでにはたくさんの出来事があり、わざわざ生きねばと思うくらい苦しいこともあったけれど、まずわたしのおばあちゃんの話をしたい。


一番身近な存在だった「おばあちゃん」

わたしにとって、おばあちゃん、と言って身近だったのは、埼玉に住む父方のおばあちゃんの方だった。

神奈川で育ったわたしは、一緒に住んでこそいなかったけれど、埼玉のおばあちゃんに特にかわいがってもらっていた。中学で部活や勉強が忙しくなるまでは両親の車でしょっちゅう埼玉へ遊びに行っていた。

どれくらい遊びに行っていたかというと、一学期の終業式が終わったその晩に父の運転で母と弟と埼玉に行き、夏休み中をおばあちゃんの家で過ごし、二学期の始業式の前の晩に神奈川の実家に帰ってくるほどの通いっぷり。しかも冬休みも。本当にずっとそんな感じだった。

おばあちゃんの家では、おばあちゃんにお手玉を教えてもらった。鮮やかな手つきのしわしわの手と、あずきの軽やかな音。近くにも同い年の友だちがいてよく遊んだ。友だちがお泊まりをしにくると、夜はおばあちゃんが怖い話をして、わたしたちを早く寝かせようと臨場感たっぷりの作り話をしてくれた。

そんなおばあちゃんは弟とわたしをかわいがるあまりに毎晩ごちそうを出してくれたので、夏休みの間に弟が激太りし、迎えに来た母が驚いたのは今でも笑い話になっている。わたしも、家族も、埼玉のおばあちゃんが大好きだった。

末期ガン、初めて見る父の涙、あっという間の別れ。

そんなおばあちゃんは、80歳になる前に、この世から去ってしまった。

わたしがハタチそこそこの頃だ。夏の終わり頃に母が「埼玉のおばあちゃん、具合が悪いんだって」と言ってからあっという間に病状が進んでしまった。

診察を受け、すぐにおばあちゃんは、「甲状腺がん」だと分かった。

判明したときには、もう末期だった。

周囲に心配をかけまいと、首元の腫れをスカーフで隠し、我慢をして病院に行くのを耐えてしまったらしい。病名が判明してすぐに入院となり、病状はどんどん悪くなっていった。

呼吸器を付けて病院のベッドで苦しむおばあちゃんを見つめながら戸惑っている弟とわたしを、父は、病院の休憩所に連れ出した。そしていつものようにブラックコーヒーを買って手元に握りながらこう言った。

「おばあちゃんは、もうだめだと思う。覚悟しておいてくれ。」

いつも明るく笑う、陽気な性格の父がそう言って涙をこぼしたのを、私たち子どもは初めて見て、これは現実なんだと涙がとめどなく押し寄せた。

よくおばあちゃんが家を行き来してお茶をしていた仲良しのご近所さんが、病室にお見舞いにきてくれたとき。危篤の状態なのに、弟とわたしを「自慢の孫だから」と自慢するおばあちゃんの姿を今でも忘れられない。

そして11月、仏様になって固く冷たくなった体を家族で運んで、もうこの世にはいないんだと感じて涙が止まらなくなったこと。すべて、覚えている。

こうして、大好きだったおばあちゃんはこの世からあっけなくいなくなってしまった。

生きることって、何だろう

それから、何のために生きるんだろう…とよく考えるようになった。あんなに元気に生きていたおばあちゃんが、あっという間に「この世にいない人」になってしまったから。「生きている状態」ってすごく儚いのだなと思った。

おばあちゃんの死を消化するまでにもずいぶん時間がかかった。その間わたしは仕事などで心身の調子を崩し、生きることをやめたいという思いに囚われていた。すっかり自信をなくし、おばあちゃんが危篤のときに「自慢の孫」と言ってくれたのをよく思い出していたけれど、そんな風に自分を思えなくて苦しかった。

ある印象的な出来事がある。友だちの運転で車に乗っているとき、他の車に接触されそうになった。危なく事故になったかもしれない、そのときに、運転手の友だちが「ああ〜よかった、こんなところで死にたくないもん!」と言ったことに対して、わたしは心から同意できなかった自分に愕然とした。

「今もしあの世に行って大好きなおばあちゃんに会えるなら、それもいいかもしれない」


遠い遠い、種子島のおばあちゃん

そうして頻繁に会っていた埼玉のおばあちゃんとは死による別れも経験する中、鹿児島の近く、種子島に住むおばあちゃんは元気に一人で生活していた。わたしのおじいちゃんは若くして亡くなってしまったので、種子島のおばあちゃんは長く一人暮らしをしていた。でも距離があるので、時々母から様子を伝え聞いたり、わたしのために方言を抑えて話してくれるおばあちゃんと電話をする程度だった。

種子島のおばあちゃんも、わたしのおばあちゃんだけど、埼玉のおばあちゃんほどは近い存在に思えなかった。距離だけじゃなくて心も遠い感じがした。種子島はわたしの出生地なのに。

母ははじめてのお産で故郷の種子島に帰り、実家の一室でわたしを産んだ。6月の暑い種子島での長いお産にヘトヘトになった母へ、おばあちゃんは機転を利かせて砂糖水を作って母に飲ませてくれたと、よくわたしに話してくれた。

最後にわたしが種子島に行ったのは、小・中学生のときだったと思う。それからずっと、種子島には行けずにいた。

30代で結婚し、夫を連れて種子島へ

ほどなく30代になって、縁がありわたしは結婚した。親族に集まってもらい小さな披露宴をしたが、種子島のおばあちゃんは足を悪くしたこともあり、来ることができなかった。

夫を紹介したかったし、大きくなって花嫁の姿をしたわたしを直接見て欲しかった。でも披露宴中におばあちゃんは電話をくれ、わたしは高砂でしばらくおばあちゃんと話した。嬉しかった。たくさんおめでとうと言ってくれた。

「おばあちゃんが元気なうちに、はやく、旦那さん連れて種子島行くからね、また会おうね」

そしてわたしの小さな目標のひとつに、「種子島のおばあちゃんに夫と会いに行く」ということがプラスされると、すぐに叶う機会が得られた。

結婚式を挙げてちょうど1年後間もなくの2017年のゴールデンウィーク、おばあちゃんの米寿のお祝いで、母方の親族が集まることになったのだ。あなたたちも来て、と母に言われて二つ返事でOKした。

おばあちゃんに会いに、種子島へ

おばあちゃんの米寿のお祝い会場は鹿児島。母が飛行機やホテルの手配をしてくれ、母と叔父さんが企画を頑張っているのをLINEや電話で母から聞いた。

鹿児島に行けばおばあちゃんに会える。でも、種子島にも行きたいと思った。そこで母とおばあちゃんに相談してもらい、鹿児島と種子島を行き来する船「トッピー」(トビウオから来ているらしい、かわいい)のチケットを調べて取ってもらうことにした。米寿のお祝い会の前の晩、母とわたしたち夫婦はトッピーで種子島に向かい、おばあちゃんの家で一泊した。

とある特別な夜にしたおしゃべりのこと

種子島のおばあちゃんの家のリビングで、おばあちゃんと母が横に並び、向かいに夫とわたしが並んで、寝る時間まで話し込んだ。おばあちゃんとこんなにたくさん話をしたのは初めてで新鮮な体験だった。

いつも母から伝え聞いていた、おばあちゃんが長く生きてきた中での、たくさんの出来事も、本人の言葉で聞くと一段と重みがあった。おばあちゃんが、母を含め4人の子どもを育てたときのこと。その他、たくさん、たくさん。

母は日頃から自分の母を『あんな風にはなれない』と思っていたのに、だんだん自分が母に似てきた気がする」と言っていた。わたしがおばあちゃんをあまり知らないのでピンと来ていなかったけれど、実際に二人で話しているのを目の当たりにして、すごくそれが腑に落ちた。
おばあちゃんは本当に母の母なんだなあと当たり前のことを感じた。

そうして、わたしも母のようになり、おばあちゃんのようになるのかもしれないと、薄暗いおばあちゃんの家の一室の中で自分のこの先を想像した。でもそれは、わたしにとって初めての感覚だった。わたしも母のようになれないと思っていたから。

なぜかというと、わたしにとって母は、宇宙人みたいだったからだ。いつも異常なほど元気で明るくて前向きで人生を楽しんでいる感じに見えてまぶしかった。そんな母の子どもなのに、わたしは正反対で、暗くて心が弱く、母のようにはなれないだろうしどう生きたらいいだろうと、母へのコンプレックスのような気持ちを持ち、生きる目標がわからなかった。

それでもなんだか、年齢を重ねていけばなんとかなりそうだと思った。母がおばあちゃんに似てきたように、わたしも母のようになれるかもしれない、と。


おばあちゃんのようになれたら。

翌日、大盛況に終わった、おばあちゃんの米寿のお祝い会。母はいつも通り宇宙人ぷりを発揮していて「またやってるなあ〜」と思いながらわたしは至極いつも通りに過ごしていたつもりなのだけれど、そんな母とわたしを見て、叔父(母の兄)は笑いながら、わたしの夫にこう言った。

「みなこ(わたし)と、みなこの母ちゃんは似てるところがあるから。苦労するだろうけど、君も覚悟して頑張れよ」

母とわたしが似ているように叔父には見えたのか、と驚いた。叔父は「母娘揃って厄介なやつらだ」というニュアンスで冗談交じりで言ってきたのだけど、母に似ていると初めて言われて、嬉しかった自分がいた。

長生きの秘訣と、生きる目標

種子島で泊まった夜、おばあちゃんに、元気で長生きするたくさんの秘訣を教えてもらった。87歳で一人暮らしなのにずっと元気なので、言葉には説得力がにじみ出ていた。舌を回して口元を鍛えたり、段差で踏み台昇降をしたり、たくさんの工夫をしていた。

秘訣のひとつ、朝に種子島のおばあちゃんの家で起きた時に出された、何が入っているか多すぎて覚えきれなかった野菜ジュースを飲み、ショウガとウコンの後味だけはわかったけれど、強烈な味だった。これが長生きの味なのかなぁ。

おばあちゃんのたくさんの努力は、今のわたしには全部できないし続けられないだろう。だからわたしは、今できそうなことを少しずつやってみようと思う。たとえば仕事の合間に伸びをするとか、そんなことでもきっといいからやってみようと考えながら、帰途についた。

わたしがもっと年齢を重ねていって、健康にもっと気を使わないといけなくなる頃。おばあちゃんの話をまた聞きに、種子島に行きたい。もっともっと歳をとってもおばあちゃんはきっと元気だろう。そうやって、わたしもおばあちゃんのようになれたら、きっとかっこいいと思うし、おばあちゃんになることはかっこいいと思った。わたしも、かっこいいおばあちゃんになりたい。


今まで生きてきていろいろあった。埼玉のおばあちゃんとの別れもそのひとつだし、生きようと思えなかった時期もとても長かった。生きているという状態はとても儚くて自分でも簡単に扱ってしまいそうになるときがある。

だけど、仲良しの友だちとも、「一緒におばあちゃんになっても遊ぼうね」と言う約束を立てた。それはわたしなりの、生きる希望の言葉になっている。だからわたしは、生き続けて、かっこいいおばあちゃんになりたいんだ。



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「かっこいいおばあちゃん」になりたくて

Minako Masubuchi / Artist

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Minako Masubuchi / Artist

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