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名前は人生のタイトル

小さな頃から、人の名前やその由来を聞いては「うらやましいな」と思うことが多かった。noteのこの企画 #名前の由来 も、書こうか迷った。わたしは自分の名前の由来についてあまりいい思い出を引き出せないし、それはわたしのnoteを時々見ているらしい両親を傷つけることになってしまうと思ったからだ。でも、一度書いておこうと思う。

わたしの名前は「増渕みな子」と書く。

名字が珍しいほうなので、今まで呼ばれたニックネームはほぼ名字絡みだったし、画数も多くて強い印象だと思う。だから名字で覚えられることのほうが多かった。一方で下の名前は、どちらかというとありふれている名前だと思う。そしてひらがな表記に最後だけ「子」の漢字。ちょっとだけ不思議な名前だ。


うちの家族はおしゃべりだ。弟もわたしももう実家を離れてしまったけど、集まるたびにわたしたち兄弟の小さな頃の話が繰り返し繰り返し話題にのぼって、お酒がすすむ。弟とわたしの名前の由来も数え切れないほど聞いた。

わたしは弟の名前がうらやましかった。彼が第二子ということや、男の子だからということなどもあるかもしれないけれど、両親が彼の名前について語るとき、すごくはっきりと由来や漢字に込めた想いを話す。わたしから見ても、弟は名前によく似合う男性になって彼の人生を生きていると思う。

じゃあわたしの名前はどうなのかというと、両親、特に母の幼少期からの想いが色濃く反映されているらしい。母は漢字のすごくカッチリとした名前で、小さな島で育ったこともあり、自分に強力に貼られたラベリングに苦しんできたそうだ。そんな母の半生は幾度となく聞いてきたけれど、最近になってしみじみと実感する。母は生きづらさがら逃げるように、何かに邁進することで生きてきた人なんだと。

そんな母は第一子のわたしを里帰り出産で産んだ。多分、母にとっては故郷はあまり帰りたくないところなんだろう。帰省しても故郷の祖母と電話していても母の訛りを聞いたことがない。それなのに初めての出産の場所に故郷を選んだのは、何か「ケリをつける」ような気持ちがあったのかもしれないと思う。そしてわたしの名前に関しては、こんなことを言っていた。

「みなこは…確か当時ちょっと流行ってたんだよね。だからみなこがいいなーとは思ってて、あとわたしがカチッとした名前で周囲からのプレッシャーが嫌だったから、とにかく"普通の子"になって欲しくて。だから最初は"凡子"ってつけようと思ったんだけど、ちゃんと読まれないよねっていっそ全部ひらがなにしたの。そしたら出生届を出したおばあちゃんが間違えて最後だけ漢字にしちゃったんだよ」

「みなこ」という名前自体に「流行」という要素があったこと、「普通になってほしい」という母の苦しい想いからの願い、「間違えちゃった」という(本当のところはわからないけれど)「子」の漢字。ずっと「ふーん」という感じで聞いていたけれど、最近名前のことを考えると苦しくなる。

正直なところわたしは自分の下の名前をずっとどう扱っていいか分からなかった。そもそも名字ばかり呼ばれるし、自分の名前の中に目指すものが含まれていない感じがした。含まれているとしたら「普通の子」なのだけれど、記憶にないくらい小さな頃から、幼稚園に行かないだの、難しい子だと言われるだの、「普通の子」とは真逆みたいな人間だったみたいだし、それは年齢を重ねるたびに強くなっているように思う。

それに、「みな」ちゃん、という子がいたりしないと、自分の名前を最後まで呼んでもらえないことが多いのもいつも少し悲しかった。小学校の時のテニスクラブに「みな」ちゃんがいて、お母さん方が呼び分けないとという感じでわたしを「みなこちゃん」と呼ぶようになった時、やっと自分の名前をちゃんと呼んでもらえたのに「ああやっぱり何か理由がないと呼んでもらえないんだ」と悲しくて仕方なかった。

もちろん「みなちゃん」って呼んでもらえることだってニックネームという愛情表現の一つだと思う。だけど、自分の名前をきちんと呼んでくれる人があまりいなかったことは、わたしにとっては別の人の人生を生きているような気分だった。友達へ書く手紙に、自分の名前を「美奈子」と書いていた時期もある。美しくなくても、なんでも、自分に意味づけをしたかった。自分の人生の指標が欲しかった。


英語で話す時、ほとんど自分の下の名前を使って会話をするということが、最近地味に嬉しいなと思う。相手が初対面の英会話の先生でも、自分の名前をきちんと口にしてくれるのは嬉しい。


わたしは子どもを産むつもりはないけれど、猫を自分の子どものようにかわいがっている。最初に会ったときにピーンと思いついて「のりまき」という名前にしたのだけど、名前を人に伝えると笑われることもよくある。うちの猫は黒と白の柄だから「のりとごはんみたい」という単純な発想だからだ。うちに来たばかりのときや文章にするときは「のりまきさん」と表現したりするけれど、直接ごはんなどで声をかけるときの呼び方はどんどん短くなっていった。今、フルネームで呼ぶとなると少し恥ずかしいような気さえする。ペットとはいえ、名前の付け方も今更ながら変だったなとも思う。

それでもわたしはうちの愛猫に「のりまき」とつけてよかったと思っているし、どんどん短くなるニックネームを猫がどう思っているかはわからないけれど、声をかけると少し耳をこちらに傾けて、マイペースに暮らしているので、たくさん話しかける。


わたしは名前に関して大きな理想を持ちすぎていたのかもしれないし、生きづらさを名前にこじつけただけかもしれない。自分の名前とどう付き合っていいかわからないまま35歳になってしまったけれど、多かれ少なかれみんなそんなものなのかもしれない。だってわたしは愛猫を大切に育てようと、時に人に笑われるような名前でも名付けたのだし、家族としてニックネームで呼ぶ。両親だって6月の暑い島で生まれたわたしの誕生を喜んで、この名前をつけてくれたのだろう。

壮大で美しい「名前の由来」がなくたって、下の名前全てを呼んでくれる人が少なくたって、関わってくれた人たちみんな、それぞれの想いでわたしを呼んでくれていたんだろう。

名前は人生のタイトルだと思う。だけど、最初にドカンと決めなくたっていい。人との関係性や、自分の生きてきた道の中から、ゆっくり浮かび上がってくることもあるのかもしれない。

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Artist, JPN よくしゃべる芸術家です。生きづらい民。趣味は外国語と歌です https://instagram.com/minakomasubuchi_jpn
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